イギリスのSF作家、アーサー・C・クラークの長編小説『幼年期の終わり』を読みました。SF小説が好きになってからこのタイトルを何度目にしたか分からないぐらいで、おすすめのSF小説を紹介しているサイトでは必ずと言っていいほど載っている作品です。初版が1953年と70年近く前の作品で、クラークファンの間では最高傑作と評価される程人気の作品のようです。
幼年期の終わり (光文社古典新訳文庫) [ アーサー・チャールズ・クラーク ] 価格:836円 |
あらすじ
ある日、世界各国の主要都市に巨大な宇宙船が現れ、地球は異星人に管理されることになります。異星人は武力による侵略や支配はせず、むしろ国家間の争いや飢え、貧困を無くし、地球に平和をもたらしました。そして、人々はそんな世界を実現させた圧倒的な存在である異星人をオーバーロードと呼ぶようになりました。オーバーロードから与えられた優れた科学技術は人々の生活水準を向上させ、誰もが自分の好きな人生を歩み、幸せな時間を過ごすようになりました。ただ、人類の宇宙進出だけは、発展しないようにコントロールされていました。
そんな幸せな日々が続いたある日、念動力を発現する子供が世界中で出現し始めるという奇妙な事件が起き、世界は大きく変わっていきます。
オーバーロードが地球を管理する理由は?
なぜ念動力を持った子供が出現したのか?
オーバーロードの登場から、物語の背景に何か大きな力が蠢いている雰囲気が面白く、早く続きを!と思っているうちに一気に読み切ってしまった、そんな作品でした。
誰の視点で読むか
読む前はSFの傑作という評判から、好奇心を刺激する科学技術やそれらを背景に展開する壮大な物語などを想像していましたが、そのイメージとは違い、SFだけどどこか神話のような雰囲気を感じさせる物語でした。もちろん、イメージと違ったからといって面白くなかったわけではなく、むしろその分物語に引き込まれました。
物語は人間の主人公を中心に話を展開しているので、読み手の僕も人間側の立場で感情移入をするのですが、読み進めていくといつの間にかオーバーロード側の立場にも感情移入してくるようになりました。物語は3部構成になっていて、それぞれ時代と主人公が異なるのですが、オーバーロードだけは全ての話で共通していて、そんな人間を見守り続けるオーバーロードにどこか孤独感を感じるようになったんですね。
序盤で、主人公がオーバーロードに地球に来た理由を質問する場面があるのですが、具体的な理由ははぐらかされ、ただ指示をされて来ただけだ、というような回答が返ってきます。
そういった描写から、最初はオーバーロードも宇宙に存在する植民地(惑星)の一つを任されたある組織の一構成員でしかないという印象を感じ、感情移入をするような登場人物ではありませんでした。でも、話が進むにつれて、オーバーロードの人間に対する対応は人間がまだまだ種族として未熟だったからだという事がわかってきます。
まさに、自分の子供に親の苦悩を説明しないような感じでしょうか。僕はまだ親になった事がないので分かりませんが、そう解釈する事でオーバーロードから孤独感を感じるようになりました。人間側とオーバーロード側どちらの視点で読むかによって物語の感じ方が変わるところは面白かったです。
最後に
物語の中で人間を種族としては幼年期であるとしている点は、人間(と人間の住む世界)はまだ幼く未熟だと言いたい部分があるのかな、と感じました。この作品が出た当時は戦後間もなく、まだ平和だとは言えない時代だったと思います。戦争経験者である作者が戦争を通して見た人間は、種族として幼い子供のように見えたのかもしれません。でもこれと同時に人間には成長の可能性があり、種として成熟すれば人間同士で争うことのない平和な時代が訪れるという希望も持っていたんだと思います。
科学技術や難しい理論を根拠に組み立てられたSFも面白いですが、この作品のように思想をもとに展開されるSFも面白かったです。
思えば、地球が地球外の存在に管理されているというテーマは他の作品に似たようなものがあったように思います。この作品が元祖というのかは分かりませんが、例えば似たようなテーマで人類が宇宙人の食糧として飼育されているといったものがあると思いますが、それと比べてどこか神秘的で不思議な魅力を感じる作品でした。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。